ネイチャーフォトグラファー #上田優紀の日本辺境紀 「釧路湿原」

今、釧路湿原を旅しています。
早朝、暗い時間から釧路川に向かい、ひとりカヌーに乗りこみました。岸を離れてすぐにその異様なほどの静けさに気がつきます。波もなく、風もなく、木々が揺れて葉っぱが擦れる音さえしないのです。ただ、ぴちゃぴちゃとパドルが川面を叩く音だけが響いているだけでした。
歩いているような速さで本当にゆっくりとカヌーは川の上を滑っていきます。靄がかった森に朝日が差し込みはじめる頃、耳をすませば森の奥から鳥やエゾジカたちの鳴き声が聞こえはじめます。森が目覚める瞬間と出会ったことはありますか?夜の森には一切の光がなく、のしかかるような重い暗さがあります。音を立ててはいけないような重圧とでも言うのでしょうか、まるで怪物に気づかれないよう歩調も自然と慎重になってしまうのです。そんな黒い世界に朝日が差し込むとその姿は一変します。まるで森が讃美歌を歌い、希望を取り戻したかのようにキラキラと輝きを取り戻していきます。ぼくはこの瞬間が一番好きです。もし希望というものに形があるなら、こんな風景なんだろうなと思います。

カヌーを楽しむコツはゆっくりと進むことです。そのほうが川を泳ぐ魚も見れるし、森の動物たちの息遣いまで感じることができます。今、ぼくの頭の上を一羽のオジロワシが飛んでいきました。二千羽しかいない希少野生動物に指定された珍しい鳥です。こんな出会いも急いでいては見逃してしまうかもしれません。時にはパドルを漕ぐのを止めて、川の流れに身を任せてみましょう。頬を撫でる風は優しく、森の匂いや音に包まれた世界がどれほど心地のいいことをいつかあなたにも知ってほしいです。
カヌーを降りて森を歩いてみました。釧路湿原の歴史は遥か昔、氷河期にまで遡ります。約二万年前から長い時間をかけて形成されていき、三千年前には今とほとんど同じ姿になったそうです。今回は特別な許可がないと入れない天然記念物区域にいれてもらいました。しばらく深い森の中を進んでいくと少し開けた場所があって、そこには何百年も前にアイヌが暮らしていた村や祭壇の痕跡がありました。痕跡といっても遺跡や住居があるわけではなく、座っていたであろう丸太があるくらいでほんの微かにその匂いが残っているだけです。それでも十分に彼らがここで生きた確かな証を感じられたことがなんだか嬉しくなりました。

さらに歩いて森を抜けると見晴らしのいい丘にでました。どこまでも続く湿原をしばらく眺めていると川に一頭のエゾジカが水を飲みに来たのです。今、きっとぼくが見ている風景はかつてアイヌの人たちが見たのと同じ風景なのでしょうね。ここにはまだ何千年も変わらない世界がありました。街からたった数時間離れただけなのにこんな場所があるなんて、とても不思議な気がします。

一日の終わり、沈む太陽が大地と蛇行を繰り返す川を照らしていました。悠久の時を生きる釧路湿原は近年その範囲が少しずつ減少しているようです。古来より多くの恵みを自然から受け取ってきたぼくたちは自然や子供たちの為にこの美しい風景を守らなくてはいけません。ここに立った未来の誰かがまたぼくと同じようにタイムスリップしてくれることを願っています。
では、また。

1988年、和歌山県出身。京都外国語大学を卒業後、24歳の時に世界一周の旅に出発し、1年半かけて45カ国を周る。帰国後、株式会社アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり世界中の極地、僻地を旅しながら撮影を行なっている。近年はヒマラヤ8000m峰から水中まで幅広く撮影をしている。
2018年アマ・ダブラム(6856m)、2019年マナスル(8163m)登頂、2021年エベレスト(8848m)登頂。