LIFE

「くだり坂」を生きる私たちへ。

僕たちは今、下り坂の途中にいる。ずっと感じていたものの、それを受け入れられたのは割と最近のことだ。今ではとてもクリアにその光景を思い浮かべることができる。僕たちはみんなで下り坂を歩いている。

「失われた30年」の呪縛。

僕は1984年生まれでもうすぐ38歳を迎える。物心ついた頃にバブルが弾け、そこからちょうど「失われた30年」と呼ばれる時代を生きてきた。失われた10年は、いつの間にか20年になり、30年となった。このままいけば40年、50年と伸び続けるだろう。この社会は失われつづけるのだ。

しかし僕たちはこの「失われた30年」という言葉に騙されてきたのではないかと考える。「今は、たまたま”失われている”だけなんだ。みんなで今より頑張れば、きっとまた成長する社会を”取り戻せる”はずだ」と。過去の栄光に縛られた、なんて現実逃避的な思考だろうか。

もうそんな「成長=のぼり」の社会は訪れない。そう認めるタイミングに来ているのではないか。30年間も失われてきたのであれば、それが「日常」であり「通常」なのだ。「失われた30年」とは、過去の栄光や古き成功に「縛られた30年」だった。

社会の成長に個人が犠牲になる

僕は千葉県の外房で育った。小さい頃に東京側にいく電車を「のぼり電車」と呼ぶことに違和感を抱き、親に聞いたことを覚えている。どうして、(物理的に)上ってないのに「のぼり」なのかと。もちろん「上京」という言葉がある通り、地理的な高低ではなく、「ヒエラルキー的な意味合い」の「のぼり」だ。

かつて多くの人が成長や成功を求めて「のぼり」に乗り込んだ。頑張れば認められ、出世し、給料があがり、豊かになれると信じていた。実際にその通りだった。その頃は、まだまだ生み出すべき物事があり、為すべき仕事があった。人口も増えていた。嬉々として、人々は上っていった。煌びやかな都市のあかりに吸い寄せられるように。

しかしその「のぼり」いつまでも続かなかった。いつまでも先があると思っていた道にも頂上があったのだ。そして気付かぬうちに人々は頂上に辿り着いてた。それにも関わらず、さらに上を目指せと頂上を探している。

どれだけ働いても暮らしは楽にならない。責任が増え、給料も増えたが、出費も増えていく。カツカツの生活は続き、将来の不安は消えない。せっかくの休みは仕事疲れの休息に当てられる。仕事のための仕事が増えている。老後も安心はできない。タワーマンションの階数を競い合い、次から次へと高層マンションが建てられる。

しかし成長はとまり、次に効率化が謳われる。もちろん限界がある。システム化が進むにつれ、個人の意思は隅に追いやられた。常にシステムが優勢し、個人は蔑ろにされた。

自分の努力が足りないんだ。自分には才能がないんだ。みんな頑張っている。もっと頑張らなくちゃいけない。メディアに映る成功者や他人と自分を比べ、自己嫌悪に陥いる。悩み、自省する。そこから滑り落ちてしまう恐怖と日々戦っている。一度置いてかれたら、なかなか元の列には戻れない。それが「のぼり」のルールだった。

 

間違っているのは、社会側ではないか。

一般論のように書いたが、これは僕自身の話でもある。小学校から学校競争にさらされてきた。幸福にも勉強ができる環境があり、名門とされる早稲田大学に入り、広告代理店の博報堂に入社した。しかしそこでも安心することはできず、結果を出すことに必死になって夜中まで必死に働いた。

広告という資本主義ど真ん中で仕事をした。いかに人々の欲望を喚起し、購買につなげるかを考えつづける仕事だ。「本当にこれ以上、モノを売る必要はあるのだろうか」そんな疑問が頭の片隅に常にあった。でも止めるわけにもいかない。それが仕事なのだから。

今は独立して会社をやっている。自由度は増したものの、資本主義システムから逃れることはできない。今日も葛藤しながら仕事をしている。

間違っているのは、個人ではなく、社会側のほうかもしれない」その視点を持てるようになったのは、つい最近のことだ。この社会は「正しく完成されて」いて、みんなそこで頑張っている、うまくいかないのは「自分のせい」なのだ。そう考えても仕方がない。「自助・自己責任」の言葉が飛び交う社会なのだ。社会全体、みんなが下っているのに、個人の力でのぼろうとすることは難しい。強い流れの川で上に向かって泳いだところで、下へと押し流されていく。

資本主義による経済成長思想は、役目を終えているのではないだろうか。無限の成長など起こり得るわけがない。モノは溢れている。人々の欲望だって限度はある。人口は減り、総需要も増えることはない。資源は枯渇し、環境に多大な悪影響を与えている。「いつかイノベーションが低成長を打破する」という主張も30年も続けば幻想だ。誰もコントロールできないグローバリゼーションの波に個人が翻弄されている。

「ものが足りない時代」ならば、資本主義/経済成長思想は有効なシステムだったはずだ。そのおかげで、この社会は豊かになった。至る所で安全でおいしい食べ物が手に入る。医療は発達し、人々の寿命は伸びた。餓死するようなこともほとんどない。この文章だって進歩したPCで書かれ、世界とつながったネットワークで配信している。

しかしもうそのような成長を求めることは難しいタイミングに来ている。無理に成長させようとすることで、混乱や疲労が生まれている。それは成長痛などという易しいものではない。今の社会は、大人になってもまだ「身長が伸びる」と信じている子どものようではないか。

「個人が幸せになれない」というミクロな話もあれば、「地球環境の危機」というマクロな話もある。資本主義が地球環境を食い散らかし、先進国が豊かな暮らしを望みすぎた結果、多くの人々を搾取する構造が生まれた。

ローカリズムが持つ可能性。

資本主義がメインシステムだとしたら、それだけではない「サブシステム」が必要なはずだ。その「サブシステム」のひとつが、この「ローカリズム」という概念にあると考えている。

一般的に、ローカリズムは「地域主義」と訳されるグローバリズムと対になる言葉だ。ここではそれを物理的な話だけでなく、精神的/思想的な意味合いも多く含んでいる。資本主義/グローバリズム/経済成長信仰といった「のぼりの生き方」と対になるような「くだりの生き方」を追求する思想だと捉えている。

もともと、人が幸せにそれほどお金はかからなかったはずだ。運動して汗をかいたあとの水。冬に食べる野菜たっぷりの鍋。夏の夜の散歩。読書や映画。海や星、緑といった自然を感じる時間。大切な人と過ごす空間。それらは本来、ほとんどお金のかからないものだ。

足りないのは、お金ではなく、それらを味わう時間と余裕、これまでの当たり前(社会通念)から脱却するきっかけなのだろうと思う。

そしていつだって、文化はローカルに宿る。のぼりは一箇所に集約するが、くだりには無限の広がりがあるからだ。くだりは多様であり、固有な道に分かれている。ローカリズムは、地域の文化を楽しみ、各々の暮らしを尊重する思想でもある。

もちろん、資本主義の全てを否定することではない。今すぐ都市を離れ、田舎暮らしをすればいい、という話でもない。ただ、メインシステム(資本主義社会)だけではない、サブシステムが必要なのだ。サブシステムくらいあってもいいではないか。ローカリズムは、そのサブシステムとしての可能性を秘めていると考えている。

「くだる」ことを楽しんで生きる。

まずは、自分たちが「くだりにいる」ことを認めること、そして「それならそれを楽しめばいい」という思考が必要なのではないかと考える。まずは「失われた30年の呪縛」から抜け出さないことには前には進めない。我々はもうほとんど頂上にいる。「降りた先」にこそ、豊かな暮らしがあるのではないか。山口周さんは、今いる場所を「成熟の高原」と呼んだ。僕は高原ではなく、降りた先に「成熟の平原」があるのだと考えている。

"21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すことではなく、私たちが到達したこの「高原」をお互いに祝祭しつつ、「新しい活動」を通じて、この世界を「安全で便利で快適な(だけの)世界」から「真に豊かで生きるに値する社会」へと変成させていくことにあります。”

『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』山口周著

 

ここにあげられる「真に豊かで生きるに値する社会」とはどんな社会だろう。

多くの物を持たなくても、豊かだと思える社会。人と比べなくても、幸せだと思える社会。押し付けられた均一な暮らしではなく、多様な生き方を選べる社会。「別に降りてもいいんだ」と思える社会。「くだっていく」ことをみんなで楽しめる社会。そういうものを、皆で考え、追求していくことが必要がある。そのための場所として、この「Locarism」を立ち上げてみた。

だからまずは自分の人生を通して、くだり坂を楽しんでいきたい。まだまだ模索し、悩んでもいるけれど。その先に広がる、より多様で、より固有で、より自由な風景に期待をしながら。